東日本大震災から11年。
今年は曜日が2011年と重なることもあり、予兆のような2日前の地震など週の流れの中であの日のことが思い起こされます。今日は、我が党の泉健太代表とともに、地元宮城で鎮魂の祈りを捧げます。生かされた者として、また、議員として為すべきことを改めて胸に刻む3月11日です。
「ここは学校だったんです」。石巻市大川小・語り部の佐藤敏郎さん。あの日以前にも思いを致すことで、あの日を知り、伝えることもできる。あの日、命を守るために何が必要だったのか。その場の判断の限界と、それを見据えた事前の備えを問い続け、防災をいのちを守る希望としたい、と活動されています。
気仙沼市「追悼と防災のつどい」では、東北大災害研・今村文彦教授の講演を拝聴しました。「我々は備え以上のことはできなかった」「過去の経験・教訓は重要。しかし、固定してはいけない」他、1月のトンガ津波の際の避難行動への問題提起も。思いを行動にするためのヒントが詰まった内容でした。
宮城県では、いまだ49ヶ所の防潮堤工事も未完です(2月末現在)。相次ぐ台風被害やコロナ禍も追い討ちとなり、震災前の売上回復にも至らず、人口減少の加速に地域再生の課題も抱えています。福島原発の廃炉の道筋は見えず、原子力緊急事態宣言は解除の見通しも立っていません。岸田総理は、教訓継承は「私たちの責務」といいながら、地域コミュニティの形成・継続、子どもたちへ学習支援など長期的視点で取り組む必要があるきめ細かな支援に関する予算は大幅に削りました。処理された汚染水の海洋放出を、地元の理解なしに結論ありきで強硬に進めています。復興大臣は沖縄・北方領土担当と兼務とし、被災地に寄り添っているとは到底思えない対応です。
東日本大震災をどのように経験したのかは人それぞれだと思います。11年が過ぎても、自分でも驚くような悲しみがこみ上げてくることもあるでしょう。政治ができることは、被災した方たちの暮らしを支えるための必要な予算を捻出すること。それは住まいの確保であり道路を造ることであり、生業の再生や創出であり、そして、言葉にならない思いをできる限り受け止められる環境を整えることです。
その人の人生を歩めるのはその人しかいません。その人の選択はその人の責任です。しかし、多様な選択肢がある環境が得られるかどうかは、個人の努力だけでどうにかなることではありません。自助を存分に生かすためにも、公がなすべき責務はまだまだあります。今国会でも東日本大震災復興特別委員会を中心に、現政権の復興政策を問い質してまいります。